光太郎の励まし受けて賢治の劇を半世紀
花巻賢治子供の会
照井謹二郎・登久子夫妻
●昭和22年から始めた「賢治子供の会」ですが、最初に高村光太郎先生の山口の小屋に行って先生を慰問する形の中で子どもたちの劇を見て頂きました。
そして「風の又三郎」を昭和24年に公民館かな?中央座だったのかな?劇をやった時に高村先生に一緒に見て頂きました。 先生が見ている時に「実に素晴らしい」とこう言うんですよ。「今やっている、このまんまの姿をずっと続けなさい。決して中央の真似をしないように」と固く注意を受けたんです。 ●初めてやった劇を高村先生からそういう励ましの言葉を頂くとは夢にも思ってなかった。本気に考えて行くには少しくすぐったいような気がしたんですが、先生はそれを見抜いて「私が良いと言ったらば絶対良いのだ。私を信じろ」とこう言うのです。そういうように激しい言葉で「この劇をこのまんま続けなさい」と ●そして昭和27年秋、東京に発たれるまでの間、毎回、毎年、先生は見にいらして「素晴らしい、素晴らしい」と言って最後には非常に有り難いお手紙を頂戴して。その手紙といったら本当に身に余るような手紙でした。
●昭和22年からずーっと劇を続けて平成3年まで約46年間に159回やりました。昭和62年に「久留島武彦文化賞」を頂戴することになり、東京の青山会館で宮沢さんと私と私の娘と3人で出席しました。この時「賢治子供の会」の童話劇が賞を頂戴する事について選考過程の考え方を富田先生がお話し下さいました。開口一番先生の言葉そのまんま言います。今でも忘れません。「今、日本で、賢治の童話劇の脚本書いてる人は何十人、何百人いるか分かりません。だけれども賢治の童話に最も忠実に脚本を書いている人は賢治子供の会の照井登久さんだけです」と、はっきりおっしゃった。
●それを聞いた時、40年前の高村先生の言葉がさっとひらめきました。「今のままが一番良いのだ。このまんまを続けなさい。東京の真似なんかしないように。ずっと続けなさい」と。40年たって富田先生の言葉は同じ事をおっしゃってる。
●昭和62年に、私が85歳になったから、いつ迄もずるずる長く延ばす訳に行かないから、85歳で一切をピリオドを打とうと劇もすっばりやめました。宮沢賢治記念会の理事長をやっておったけれども、それもきっぱりやめました。宮沢賢治のいろいろな関係の行事から一切手を引いた。
●賢治先生の生誕百年という事で「教え子として何をやれば良いか」を考えた。その時とっさに思ったのは「風の又三郎」だった。最初に発表した時は、高村先生がわざわざ山口からいらして子どもたちの中で見て頂いた。 席を設けようとしたら「そんな事やるな、子どもたちと一緒に見た方が良い」と。「風の又三郎」は非常に印象深い。生誕百年記念にはやはり「風の又三郎」だと決めた訳です。
●何年ぶりかで見る「風の又三郎」は15人の子どもたちが一心に舞台で表現している。それをじっと見てて「この子たちを今回限りで離すというのは勿体ない」という気持ちがひらめいた訳です。舞台で遊んでいる、喜々として表現している子どもさん方を見て「せっかくここまで来た子どもさん方を一回で終わるのは私としては出来ない」
●その晩、床の中で「よし、来年はやはり7月の20日になめとこ山の熊をやろう」と決めた訳です。「なめとこ山の熊」はとても素晴らしい作品でね。家内と私で「なめとこ山はここだぞ」というような所に、実際に行って脚本を書いた。
●奇しくも今回「なめとこ山」が地図に明記されました。そういうようないわれも一緒について来たもんだから、地図に発表になったお祝いとして「なめとこ」をやろう、喜びは二重になる。そういうな理屈をつけて来年やろうと決めました。